公益信託 倫雅美術奨励基金

鞄持ちとしての述懐

鞄持ちとしての述懐

菊屋吉生

 私自身、この倫雅美術奨励賞の第1回に受賞させていただいてもう30年経ったわけで、その後も毎年受賞される著書、展覧会企画、美術作家(第10回まで)については、誰が、どんな内容で受賞されるのか、興味深く見続けて来ましたが、2009年の第21回からは賞を審査する側として参加させていただくようになりました。毎年数多くの候補対象のリストと資料が事務局から送られてきて(事務局のご担当のご苦労には毎回本当に頭が下がるのですが)、それらに他の審査委員と手分けをしながらも目を通していくことは、スピーディーな仕事が苦手な私にとっては、正直大変な作業ではありますが、毎回自分が見ることができなかった、あるいは知らなかった著書や展覧会図録などをほぼフォローできるこの機会は、大変新鮮な刺激に恵まれた、ありがたくも、喜びに満ちた時でもあります。

 この倫雅美術奨励賞が創設されたころは、むろん河北先生もご健在で、授賞式で先生にお声をかけていただき、いろいろお話しができたことは、その後の私の仕事の上で、大変な励みになったことは、過去の倫雅賞に関わる文章でも書かせていただきました。ただ30年が経ち、河北先生も1995年にお亡くなりになり、倫雅賞創設時からその運営の中心にあって頑張ってこられた富山秀男先生が2014年に引退されたのちは、河北先生の当初からの意向と遺志を最もよく知る方はいなくなったように思います。富山先生が選考審査の際によく口にされていた「河北さんだったら……」という言葉も、今では誰も口にはできないし、そうした意識も働かなくなっているように思えます。その後、2014年に内山武夫先生がお亡くなりになり、2016年に浅野徹先生が、今年から市川政憲さんが運営、審査から引退されて、いよいよ河北先生を直接に知る方々は、倫雅賞の運営方にも少なくなっています。賞が長く続くということは、設立者の遺志とともに、時代に応じた形で設立者を知らない世代へと受け継がれていくということなのでしょう。

 その意味で、今回改めて私の山口県立美術館在職中の上司であった足立明男さんにお会いして聞き書き(本誌掲載)を行ったことは、私にとって、河北先生の倫雅賞に対する想いを再確認する上でも大変有意義なものでした。足立学芸課長(当時)の鞄持ちとして、河北先生のご自宅や、美術館あるいはホテルなどで先生にお会いして、傍らで直接お話しをお伺いできたことが懐かしく思い出されました。まだ美術館の様子も把握できていない当時の新米学芸員にとっては、この上もない貴重な経験だったと今さらながら思われます。

 今となっては、この倫雅賞への河北先生の想いは、その「設立趣意書」でしか推し量る以外はできなくなってしまいましたが、ここで述べられる「若手美術家たち」が、若き美術評論家、美術館学芸員、美術研究者たち(当時は若手美術作家も含む)を指し、彼らの優れた活動を顕彰するために賞を設定されたことがわかります。ただ、ここで言う美術評論、美術研究も基本は美術館・博物館という現場で培われた学芸業務の延長上で成しえた仕事が顕彰対象の中心となっていくべきだと私は思っていますし、それこそが河北先生が望んでおられた賞の方向だと信じています。

(山口大学教授)

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