「倫雅の想い出」と「倫雅賞への夢」
「倫雅の想い出」と「倫雅賞への夢」
富山秀男
「倫雅」とはこの賞を設定した河北倫明・雅枝双方の頭文字を繋げて音読みにした夫婦一体の自称、また、訓読みの「倫雅」は、お子さんたちに向けられた父母の別称として、なじみ深いものになっていたそうです。
すなわち夫河北倫明(以下倫という)は今の福岡県うきは市を拠点に数百年間続いてきた旧家中の旧家の一員、修学後美術史研究に職を求めて東京に出、妻雅枝(以下雅という)と結ばれて3子を設け、長い長い縦軸に対して短くても強靭な横軸を打ち据えたのでした。しかも倫の美術評論に対する雅の音楽活動(コーラス・グループ「芙蓉会」を主宰)は、一際生彩を添えるものでした。こんな裏話を一つ。倫と同じ職場の後輩だった若造の私には、屢々日曜出勤の当番が当り渋々行くと、出る必要もない倫が先に来ているのです。何故と訊くと「うーん、家中賑やかすぎて居場所がないんだ」とか。あゝ何と自然体のいい家庭だろう、と思ったことを忘れません。
見ていないので後回しになりましたが、家の内情に詳しい人にいわせると雅の内助の功のうち最大のものは、原稿書きに熱中する倫の司書役としての雅の有能さだったと断言します。ともあれそれらすべての象徴が、東京八王子市の梅洞寺にある石碑のユニークさでしょう。頭の円い蒲鉾形の自然石の表てには倫の毛筆書体で「倫雅」と縦に大きく深く刻まれているだけで、「河北」も「墓」の字もないのです。私にはこれは墓碑ではなく夫婦愛の記念碑にしか見えませんでした。
さて、肝心なのは「倫雅賞」のこと。金婚の慶事に何をしようと親族一同が話し合ったとき、それは倫雅の自由といわれてトントン拍子にできたのが公益信託によるこの賞でした。美術史研究と美術評論などの部門分け、単行本に限らずカタログ論文も対象とする、年齢制限、推薦制度などなど、一気呵成の決め方でした。
倫雅揃って出席できたのはその第一回賞献呈式の時だけでしたが、その時挨拶に立った倫は屈託もなくこんな話をしたことを、今でも鮮やかに覚えています。「越後の禅僧良寛上人の短歌にこんなのがあります-花開くとき蝶きたる/蝶きたるとき花開く-と。解釈の難しいこの下の句を私は全く自分勝手に使わせてもらって、この蝶のようになりたいというのが私の夢であり、この賞の役割りだと思っている次第です。」と。
今年はその30回目の受賞式典を迎える節目の年とのこと。私までもが感無量の思いでわくわくしているところです。
(元京都国立近代美術館館長、元石橋財団ブリヂストン美術館館長)