公益信託 倫雅美術奨励基金

「倫雅美術奨励賞」30周年に寄せて

「倫雅美術奨励賞」30周年に寄せて

貝塚健

 卒業論文のテーマに、中学生の頃くらいから好きだった青木繁を選んだ。まっさきに読まねばならない基本文献は、1972年に日本経済新聞社から刊行された河北倫明先生の『青木繁』である。だから河北先生の最初のイメージは青木繁研究に先鞭をつけた美術研究者というものだった。この文献は同年にブリヂストン美術館で開催された「生誕90年記念 青木繁展」の成果が反映している。1989年、運良く同館の学芸員になることができた。拾っていただいたのは嘉門安雄館長である。1歳年上の嘉門先生はお話しのなかで「河北が」と呼び捨てにしておられたが、それは戦前からの長く親しいお付き合いのあらわれのように感じられ、心地よく耳に響いた。美術館に勤め始めると、いやでも河北先生の大きさに圧倒されることとなる。もちろん、1940年代の東京国立文化財研究所時代から、福岡県久留米の先人であり明善校の先輩でもある青木に目をつけ、パイオニアとして深く広く掘り下げていった出発点だけにとどまらない。洋画、日本画の双方にまたがって日本近代美術史を掴み取る視野の広さや力量の大きさは驚くばかりだった。美術館人としての事績もすべてを数え上げることはできない。美術界あるいは美術館界が、河北先生を中心に回っているような気さえしたといってよいだろうか。お目にかかったことがほんの数回だけある。近くでお話ししたわけではなかったが、「これが河北先生か」と納得させる気品と威厳を感じたことをよく覚えている。しかし、人を寄せ付けないような冷たさは微塵もなかった。

 その河北先生が、後進の美術史家、美術評論家そして美術家を励まそうと、生前に倫雅美術奨励基金を設立したことは先生らしいご発案だと感じたが、同時に余人ではなしえない事業のようにも思われた。以来、錚々たる尊敬すべき先輩学芸員、研究者が受賞されてきた。自分がこの賞をいただくことはないだろうと思いつつも、正直に言うと、心の片隅に「いただけたらいいだろうなあ」という不遜な野心みたいな気持ちが、ほんの少しだけあったことは白状する。しかし実際に2008年に企画した岡鹿之助展をきっかけに受賞できたことはやはり予想外、望外のことで、ほんとうにうれしかったのを記憶している。その後は、この賞に恥じないように日々心がけることで精一杯だった。2011年、これも幸運なことに「没後100年 青木繁展」に関わることができた。河北先生から連綿と続く青木繁研究を後進に引き継ぐ責任というものを、ひしひしと感じつつ取り組んだことはいうまでもない。河北先生のご遺志を、ほんの一部でもなんらかの形でお手伝いすることができたら、美術館人としてこれに勝るものはないと思っている。

(石橋財団ブリヂストン美術館教育普及部長)

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